鬼ヶ島の鬼伽姫
―紅鬼編―


#2 ついてねえにも程がある


『西の鬼殿』といえば、かつて地元では結構ブイブイ言わせていた妖怪だ。紅の肌。それを透かして浮き立つ見事な筋骨。運動する毎に吹き出る蒸気と熱。その体躯はそれだけで見る者を圧倒してきた。
彼は今、誰もいない職員室の、校長の椅子に座っていた。ふと窓から見上げれば、空には無数の蛇の船。異様の気を放つ紅い空が、夜空の闇を食うように広がりつつある。
(そろそろだな)
今夜もまた、彼はいつもの仕事を始めようとしていた。粗末な古いはんてんを脱ぎ捨て、虎柄の上等のはんてんを着る。着替えると見違えたように身が引き締まる。
鬼殿がその大柄な体躯を起こして立ち上がると、ざわざわと異様の気が職員室へと侵入してくる。職員室中の席がかたかたと揺れた。窓から吹き込む妖気が室内でさまざまの形に結晶してゆく。次の瞬間には、ほぼ全ての席に、すでに何者かが座っていた。室内はざっと騒がしくなった。

「オーナー」
「参上致しました、オーナ―」
「いつもながらお早いことでございます、オーナー」
彼らは次々にいう。彼ら。それは小さな付喪神の群れだ。動物に類するもの、道具に類するもの、彼らはみな仮りそめの肉体に小さな生命を宿した妖怪たちだ。
「おうよ。久々に『モーテル鬼ヶ島』、19時ジャストから営業開始だ。はりきっていこうじゃないか!」
西の鬼殿は野太い声で爽やかに叫んだ。
「諸君、まずは営業の心得十箇条を唱えよう」
鬼殿がおごそかに告げる。皆は声を揃えた。
「ひとーつ! お客さまの満足を第一に考え、常により質の高いサービスをご提供できるよう努めること!」
「ひとーつ! お客さまの安全を第一に考え、万全な危機管理を怠らないこと!」
「ひとーつ! 労働者たる私たちの健全な精神の……」
「スタッフ一同! 静かに!」
突然、鬼殿が制した。ドアの向こうを指差す。
「そこにいるのは誰だ!」

ドアがガタゴト鳴った。どうぞ、という前に外れてしまった。
現れたのは娘だ。一人娘の鬼伽姫。

彼女はあいさつもなく入室すると、左の握り拳を振り振り、自らの腹筋をゴツンと叩くと、誇らしそうにこう言った。
「親父。ヨロズを食ってきた」
「何だと?」
「だーかーら、ヨロズの血をひく男子を食ってきたと言ったんだ」
大男、しばし黙る。黙ってから、狼狽しだす。肩は震え、汗がたらたら流れ出した。
「く、食った……とは、食ってしまった、という意味か?」
「そうだ、食ってしまった。喜べ、親父。アタシはこれでもう死なないよ」
そう言って力こぶを作る娘は、とがった歯を見せて笑っている。
「食ってしまったとは、食べてしもた、という意味か?」
「おうよ、食べてしもた。一呑みでな」
しばし震え、しばし静かに笑ってから、西の鬼殿はほろろと泣いた。娘は理由がわからず、おう元気出せよ、と肩を叩くこと二回。しかし……。

「ばか!」
突然の父親の剣幕に、娘は怒鳴り返した。
「ばかだってぇ、アタシがばかだってんなら、そいつはてめーのDNAがいけねえや、何だい、てめー、ゆでられたマダコみてーな赤い面しやがって」
しかし、笑いものになったのは、彼女の方だった。小さな付喪神たちが、野卑な調子で大いに笑った。
「バカがいる」
「おい、バカがいるぞ」
「おほほ、おほほ……」

鬼伽姫は近くにいた傘状の付喪神をぐいと捕まえ、怒鳴り散らした。
「アタシを馬鹿にするな、チビども! この鬼伽姫さまが何をトチッたってんだ、バーロー!」
傘はくるくると回りながら言った。
「食べるってェ、そういう意味じゃないのよー」
「じゃ、どういう意味だ!」
「言わせないでよー、変たーい!」
「ウガァ、てんめー、アタシが変態だってんなら、親父の遺伝子はド変態だ! そういうことでいいんだな、てめーは赤鬼一族に喧嘩を売っているのだな! いい度胸だ!」
鬼伽姫が鋭い爪の生えたその手を振り上げる。振り上げた風圧で空気が震え、天井が唸るように低い音を鳴らした。雷のごとく鉄槌が振りおろされようとした、その時。その腕を掴んだのは彼女の父親である。
「やめんか! はしたない!」
鬼伽姫は地団駄を踏んだ。
「はしたないとは何だい! 親父! 皆に馬鹿されて、アタシ、悔しいよ!」
「いいから座りなさい! ウガアアア!」
父に威嚇され、娘は不満たらたら椅子に座った。

「いいか、もはや術はひとつだ」
張り詰めた声で父親が言った。手招きで一匹の妖怪を呼ぶと、祈りと信頼のこもった瞳で互いにアイコンタクトをとる。妖怪は了解の意を示すように、頭を低く下げた。
「わかっているな、蜘蛛ノ大臣(おとど)よ、娘の腹の中の万家の長男を」
蜘蛛ノ大臣はきらりと光る目で答えた。
「取り出すしかございませぬ」
しばしの沈黙ののち、
「馬鹿め」
と娘は卑屈に笑った。
「妖刀の切っ先さえ通さぬ私の皮膚が、おまえに斬れるものか」
「そうだとも。おまえは頑丈だ」
西の鬼殿はそう答えつつも、おごそかに言った。
「しかし、おまえは地獄を呑み込んでいたな」
「おうよ」
「ならば、方法はある」
鬼殿はいつからか職員室に置いてあった大きな花瓶をゆさぶり、中に指を入れて確認し、そして凄みのある微笑みを浮かべた。
「ようし。まだ新鮮だ。最近の鬼門は腐りやすくていかんが、この鬼門入れは熱も日差しも通さんし、大変にいい品だったな。これですぐに地獄につながるぞ」
鬼殿はガッツポーズを作り、バリトンボイスで命じた。
「よし、蜘蛛ノ大臣! あとは頼んだ!」


食道の長いトンネルを抜けると、痛かった。
「いってえ!」
千児は地面に激突した。草の匂い。荒野である。胃袋にしては暗くない。薄暗い光が満ちている。千児はまず辺りを見回した。だだっ広くて、何もない。
「ここはどこでェ……」
わからない。よって、彼は下手に動かないことを選んだ。次に彼は、ズボンを確認した。
「よかったよかった、漏れてないや。さすがにチビったかと思った」
千児は心底感動した。突然の極限状況。妖怪に一呑みにされるというまさかの非常事態におかれても、このおれの膀胱筋は、たゆみなく締めることを忘れなかったのだという誇らしさで、胸がいっぱいになったのも束の間、千児は途方に暮れてしまった。
「おれ、鬼の腹ん中でどうしたらいいんだよ……」
と、恐ろしい考えに至った。
「ま、待てよ、腹ん中ってことはそのうち消化液とか何かが出てきてだよ、おれっちは、あの娘の栄養分になるために、これからええ感じにメルトしてくってことかよ!」
千児は荒野に突っ伏して泣いた。
「いやだよ、いやだよ、隙山先輩なんか庇ったがために、おれっちメルト? マジありえないんですけど……。不条理だよぅ! シュールだよぅ!」
千児がおいおいと泣いていたその時だ。ひどくエコーのかかった声がどこからともなく響いた。

――聞こえるか! 人間!

世界中から響いてくるようなその声は、聞き覚えのあるアルトだった。
「そ、その声は!」
と叫んだものの、千児はその名前を忘れていた。
「何とか姫?」

――鬼伽姫さまだ。二度と忘れるなよ! 忘れられんのは嫌いだ!

「あ、そうそう、オニガヒメさまだっけな? やいやい、この鬼女! おれっち、おまえに食われてよくわかんねー荒野に取り残されてな、一人寂しく泣いてたんだから! ったく、やめろよな、おれみたいな弱い子をいじめるなんて! みっともねーぞ!」

――いいか、よく聞け。おまえがいるのは地獄だ。私は腹の中に地獄を四つ飼っているのだ。だが、おまえを食ったのはどうやら間違いだったらしい。別の方法で食わねばいけなかったようだ。というわけで出てこい。方法がある!

「出てこいったって……方法はあんのかよ!」

――方法があると言った、バカめ! 今から妖蜘蛛の糸を送る。それを伝って上れ!

千児がまた何か聞き返そうとしたその時、天から一筋の光が垂れてきた。
「お、あれはいったい何だ! く、蜘蛛の糸じゃあねえか!」

――蜘蛛の糸だと言った! 大バカめ!

「こ、こ、こ、これは俺の糸だ、俺だけの糸だ! 誰かほかにいるのか知らねえが、誰も登ってくるんじゃねえぞ! 揺らしたヤツは突き落とすぞ、ちくしょー!」
千児はなりふり構わず糸にしがみつくと、必死になって登った。その余りの小物ぶりに、糸の先につながっている者もその周りに控える者たちも、思わずほーっと息を吐きながら見守った。

途中、千児は腕の力をゆるめてしまい、ずるずると後退した。しかし、彼は思った。彼のことを心配しているだろう父母。学校の友達。このまま死ねば、彼らに会えなくなる。
「くそっ」
と彼は発奮した。糸を必死に登る。そうだ。このまま死ねば、彼は行方不明のまま、彼の通学カバンのみが発見されるだろう。その中には大していい結果ではない小テストと共に、隙山から譲渡されたエロ本が入っている。それを遺物として発見した家族や友人は、まだろくに見てもないエロ本を、まるで彼自身で買って隠し持っていたように思うだろう。
「くそ、死んでたまるか!」
千児は力を振り絞った。これほど生きたいと思ったことはなかった。やがて、荒野に吹いていた風をふつっと感じなくなった。光に目がくらんだ。そして……。

「おおっ! 生き返ったぞ!」
と野太い声。薄目を開けると、鬼がいた。紅い皮膚の大男。千児は2、3度瞬いた。そして、やっと気がついた。大男の顔と千児の顔とは、互いに触れそうなほど、接近していた。
「うっぎゃああ!」
千児は悲鳴をあげた。保健室のベッドで暴れる彼を付喪神たちが取り押さえる。千児はますます暴れ、恐怖に泣き喚いた。元気に目を覚ました彼を見て、耳に指を突っ込みつつ西の鬼殿は泣き笑いした。この少年の生命には、娘の生命が託されていたからである。
「よかった……」
鬼殿はほっとする余り、ずしりとチェアーに座り込むと、大きく息を吐き出すと、ふっと抜けるように微笑んだ。と、控えていた付喪神が騒ぎ出した。
「オーナー! 目覚めたてほやほやの万家の嫡男が!」
「ど、どうしたっ!」
「意識を失いました! 急速に魂が弱っています、大変危険な状態……」
鬼殿は怒鳴り散らした。
「すぐに窓を開けろ! 今の教室は妖気が濃すぎて人間には毒だ。おい、だれか、換気扇を回せ! ついでに新鮮な窒素と酸素のミクスチャーをガンガン入れてやれ! 人間のバディってのは単純なつくりだ。それで何とかなる!」

やがて、室内の妖気がだいぶ薄まってから、赤鬼は少年を揺さぶって起こした。少年はまた騒いだが、妖怪たちに敵意のないのがわかると、目めいを起こしながらも、ふらふらと起き上がって言った。
「いてて……、今日はもう、何が何だか」
西の鬼殿は大きなその手で少年の肩をやさしくさすりながら言った。
「すまんな。人間の少年よ、おまえは妖香にあてられたのだ」
「ヨウコウ? 何だよそれ?」
「おっほん。うちはその、『モーテル鬼ヶ島』といってな、言ってしまえば老舗の妖怪ラブホだ。まあ、こういう商売をしておるのでな。雰囲気重視というか、ほら、さすがに学校生活の匂いがしては味気なかろう。ロマンティックなアトモスフィアを醸すためにだな、最近は色々工夫して、妖専用のアロマ・キャンドル『妖香』なども焚いておるのだ」
そう言って、窓の外を指差す。幻想的な青紫のキャンプファイヤーのようなものが、グラウンドにめらめらと輝いている。それらしい雰囲気がないでもなかった。
「ここは風上にあたるため、匂いはさほど来ないはずだ。換気もしたしな」
しかし、千児はそれどころではなかった。
「何だって? 妖怪ラブホ? そんなもんが何でうちのガッコに?」

と、保健室のドアが開き、耳馴染んだ女の声がつっけんどんに答えた。
「何でって、土地の有効活用のために決まってんだろ!」
角が千児の額に触れそうなほど顔を寄せて、鬼伽姫はぎゃあぎゃあ怒鳴った。
「ここらはもともとあの世とこの世が通じやすい、妖怪たちの聖域だったんだ。なのに500年前、おまえら人間が、さも住みたそーな目でじいっと見てきやがるから、私らの優しいご先祖は気まずくなっちって、昼間の間だけ人間の土地利用を許しちまったのさ!」
千児がぶるぶる震えているのを哀れんで、父親は娘をなだめて言った。
「そうケンケンするな。この少年に罪はない。それに、歴史はもうちと勉強してほしい」
「うるさいね、親父は! 歴史なんて大体合ってりゃそれでいいだろ? 要は人間がここに居候してるってことだよ」
「そうかもしれんな。だが、うちの一件についてはちゃんと契約がしてあるのだ。昼間は人間のためのプライヴェート・ハイスクール『大西学園高等学校』を、そして夜は妖怪のためのモーターホテル、つまり我が『モーテル鬼ヶ島』を経営する、とな。大西学園初代校長とわしとの間の約束だ」

千児は鬼殿の背中に隠れながら、横から首を出して言った。
「よく生徒とかにバレなかったね」
「ああ。どうも契約の内容が初代校長殿からちゃんと伝わっておらんのか、学校もじりじりと残業を伸ばし、我が『鬼ヶ島』も深夜のみの営業に追い込まれた」
鬼殿はぐっと拳を握った。
「しかし! 我が『鬼ヶ島』は妖怪たちにとって絶対に必要なのだ! 人間たちがどんどん夜の暗闇を明らめてゆく中で、ここは妖怪が一晩の安息の時間を過ごせる、唯一と言ってもいい場所なのだ。だから時には人間に催眠をかけ、今日のように19時からの営業を開始する前倒しサービスデーもある。はっは、集客はこの通りだ!」
と窓から空を指差す。蛇の形の船が次々と校舎に乗り入れてくる。あれの一つ一つに妖怪のカップルが乗っているのかと思うと、千児は身のすくむ思いがした。そして、いまいましく思った。全てはあの船を目撃したところから、事態はおかしくなったのである。そして、あることを思い出した。

「やべっ! 隙山先輩は?」
「大丈夫だ、保護してある」
そう答えたのは鬼伽姫の方だった。
「おまえのような臆病者が、友を見捨てられぬ、などと似合わぬことを言ったのが気になってな。食われた者への情けのつもりで、あの後、気を失っていたあの男を安全なところまで連れ出しておいた。感謝しろ」
「よかった……。感謝するぜぇ、鬼の姉ちゃん」
素直に頭を下げられたので、鬼伽姫は少し困った様子で、父親の方を見た。
「親父……どないしよ。感謝されちった」
「はっは。いいことじゃないか。感謝されるだけのことをしたんだからな。いい子だ」
急にアットホームな雰囲気になり、鬼殿は二人の背中を叩いた。
「それに少年もなかなか立派なもんだ、友情はこれからも大事にするのだぞ」
が、千児はおちゃらけて答えた。
「いやいや、おれァ、今回のことで気がつきましたね。カッコつけで友達を守ろうなんて、無理だったんだなって。おれ、今度こういうことがあったら、友達見捨てて何が何でも自分を守る。あんな怖い思いは、もうやだね」

と、カーテンの向こうの隣のベッドから、声がした。
「にゃんだとぉ……」
「そ、その声は……」
カーテンをがばっとまくりあげて出てきたのは、隙山大平だった。少し前まで気を失っていたとも思えぬ、健康優良児そのものの顔をしている。千児の身体に飛びかかりながら、大平はやんややんやと騒がしくまくし立てた。
「万千児てめー、見直して損したぞ! おれ、助けてもろたって聞いた時は心から感謝してたのにぃ! おれが女だったら惚れてたかしらウフフ、なーんて思ってたのにぃ!」
「せ、先輩、放して……」
「おれの乙女心を返せや、バーロー!」

二人がもみくちゃやっていた、その時だった。
「オーナー!」
「大変です、オーナー!」
履物のような付喪神の集団が駆け込んできたかと思いきや、すぐにバタバタと力尽きた。
「何事だ!」
と険しい顔の赤鬼に、息も絶え絶えの付喪神が訴える。
「スパイです……。テロル行為です……」
物騒な言葉に、大平と千児も思わずもみ合った形のまま動きを止めて、耳を傾けた。と、そこへ、蜘蛛の脚を胴体に生やした青年が参上し、ことの詳細を述べたてた。
「オーナー。コバルトホーンの者が、客に化けて紛れ込んだようです。襲撃されました。敵は複数います。遺憾ながら、その中に妹姫殿がいらっしゃるかはわかりませぬ。スタッフ一同応戦にあたっておりますが、圧倒的に不利な状況です」
西の鬼殿の顔が、ぐぬり、と歪んだ。筋骨は禍々しく脈をうち、虎皮を引きちぎらんばかりに張りつめた。その全身から蒸気がむらむらと立ち上った。ぞっとするほど低い声で、言った。
「蜘蛛ノ大臣よ。これ以上の犠牲者を出させるな。スタッフ全員を退避させよ」
「では、連中は……」
「わしがやる!」
ズシンと、床が揺れた。鬼殿は闊歩した。保健室のドアをガシャリを開けた。こじ開けたらそのまま、壁に癒着してしまった。恐るべき力だ。千児と大平は抱き合って震えるばかりだ。そのあとにつづいて、鬼伽姫も唸り声をあげながら出て行った。

「さあ、あなたがたも早く避難を」
蜘蛛ノ大臣に手を差し出され、二人の男子高校生は立たされた。千児は大臣をじっと見た。いかにも渋い顔だったが、眼光がきらりと光るナイスガイだった。と、ろくでもない考えが千児の脳裏によぎった。
(も、もしやあの糸は、このイケメンのケツから……)
大臣はてきぱきと避難を誘導し、三人とその他の付喪神の群れはバルコニーを抜けて非常用階段の下を抜ける。大臣のスマートかつ頼もしい後ろ姿をじっと見つめながら、千児は考えをとめられずにいた。
(お、おれはこのケツを目指して、ひたすらに登っていたというのか。しかも、こいつの糸は現世へもあの世へも自由自在ってか。このケツは、何という高性能なケツであるか)
しかし、そんなことに思いを巡らせている暇はなかった。

ガシャンッ。ガラスが頭上で割れた。
「ぎゃあ! 逃げろー!」
降り注ぐそれをかわしてはかわし、一目散に走ったところ、千児はひとり方向を外れた。
「やべっ!」
と言ったがもう遅い。青い化粧を顔に施した、何やら異形の人影たちが、千児のもとへ迫っていた。蜘蛛ノ大臣や大平の姿が見えない。青い化粧の者たちは、喉を鳴らして笑っている。千児はそいつらに背を向けて、意を決して走った。体育館を目指す。とっさの案はやはりそれしかなかった。

いやな予感を覚えながらも、性懲りもなく、また2階更衣室の壊れた窓をめざすのである。息があがるのが妙に速い。妖怪のためのアロマキャンドルとやらの匂いが充満しているせいかもしれない。それでも必死に走って窓を力いっぱい開く。一息ついて背後を見る。
追われていた。青い者たちは、千児一人を追うことに決めたようである。
(うえっ、サイテェ!)
千児は更衣室を出、キャットウォークへ走り出る。天井に吹き荒れる妖しの光。妖気の灯りに照らされて、バスケコートの模様が見えた。そこはまさに戦場だった。
(おいおい、ついてねーにも程があんぞ!)
千児はいよいよ泣きそうになった。青い鬼が4、5、6人。いや、まだいる。羽交い絞めにされた赤鬼殿が、地に轟くような声で吠える。なぎ払い、なぎ払い、中腰で身構え、威嚇する。しかし、敵が多すぎる。
投げ飛ばされた一体の青鬼。その巨体が眼前に迫ってくる。
「うぎゃあ!」
千児は身を伏せたが、およそ無意味だった。ガシャンという激突音。つづいて、ギュウギュウといやな軋み音。そして、千児がしがみついたキャットウォークの手すりは、剥がれ落ちるように宙を舞った。
(ま・た・か・よ)
そう千児は思った。思いながら、言葉を失った。落ちてゆく。真っ逆さまに。